江戸時代の観相家・水野南北が語った少食開運術!!
最近の記事では、数回にわたって、納豆を取り上げており、
基本的に、マロは「納豆推し」なわけですが、
納豆メニュー中心の食生活を考える上で、ぜひ取り上げたい人物がおり、
それは、江戸時代中期の観相学(人相見)の大家である水野南北にございます
(・∀・)スンスンスーン
当時、水野南北は、「黙って座ればぴたりと当たる」と言われた凄腕の観相家であり、その人相鑑定は、時の朝廷にも認められ、「従五位の下・出羽介」という官位まで授けられているのです。
彼は、「食は命なり」という名言を残しており、開運のために少食を勧める彼の考えは、「節食開運説」と言われます。
・・そんな水野南北は、1757年(宝暦七年)に生まれ(※宝歴十年の説もある)、1834年(天保五年)まで生きた人物で、
同時代の有名人としては、
・美人画で有名な喜多川歌麿(1753年生まれ)
・『富嶽三十六景』を描いた葛飾北斎(1760年生まれ)、
・「寛政の改革」を断行した老中・松平定信(1758年生まれ)
・ロシアに漂着し帰国した最初の日本人である大黒屋光太夫(1751年生まれ)
などがいます。
南北は、大坂阿波座(現在の大阪市西区)に生まれましたが、幼くして両親を亡くしたので、
鍛冶屋をしていた叔父夫婦に育てられ、幼名を鍵屋熊太と言いました。
しかし、この人、相当悪かったようで、
10歳の頃に酒を覚えたそうです
( ´゚д゚`)エー
そして、酒欲しさに、叔父の稼ぎを持ち逃げしたり、
喧嘩と博打に明け暮れる札付きの不良少年だったようです。
18歳の頃には、酒代欲しさに悪事を働き、とうとう、大坂天満の牢屋に入れられてしまいます
( ´゚д゚`)エー
そんな南北は、牢獄生活の中で、罪人として牢の中にいる人の相と、一般人の人相の間に、明らかな違いがあることに気付いたそうです。
観相学に興味を持った南北は、出牢後、さっそく、当時大阪で名高かった易者に自分の人相を見てもらったといいます。
すると、その場で「死相が出ている」と言われ、「剣難の相があり、余命一年」と宣告されてしまったのでございます。
工エエェェ(´゚д゚`)ェェエエ工
皮肉なことに、観相に興味を持った当の本人である水野南北自身が、天下稀に見るほどの悪相・凶相の持ち主だったのです。
・・南北の容貌は、本人の述懐でも、
「背ハ低ク、顔貌セセコマシク、口ハ小サク、眼ハ、ケワシク落チクボミ、印堂(眉と眉の間)狭ク、鼻低ク、頬骨ハ高ク、歯ハ短クスクナシ。マタ、足小サシ・・」
とあり、「化け物」と呼ばれたこともあるそうです
( ´゚д゚`)エー
南北が五十歳の頃の容貌を弟子が画いたという肖像画を見てみると、たしかに、人相が良いとは言えないかもしれません。
ただ、見方によっては、往年の坂上二郎に似ています。
・・愕然とした南北が、必死の思いで「難を逃れる方法」を尋ねてみると、易者は「出家」を勧めたといいます。
そこで、南北は、慈雲山鉄眼寺という禅寺を訪れて入門を願い出たのですが、
住職は、史上稀に見る悪人顔の南北を一目見て、すぐに断ろうと思い、
「向こう1年間、麦と白豆(大豆)だけの食事を続けることができたなら、入門を許そう・・」
という無理な条件を言い渡して、追い返しました。
案外、素直なところのある南北は、なんと、この条件を忠実に実行したといいます。
堂島川で川仲仕(かわなかせ)という港湾労働者として働きながら、麦と大豆だけの食事を実践したのです。
・・こうして1年が経過し、住職から言われた条件を実行した南北が、再び入門のために鉄眼寺へ行く途中、たまたま、以前鑑定してくれた天満の易者と出会いました。
すると、この易者、南北の顔を見るなり驚いて、
「あれほどキツかった剣難の相が消えておる・・。そなたは、何か大きな功徳を積んだに違いない!」
と言ったそうです
( ゚∀゚)!!!
南北が、「食事内容を1年間粗末なものにしていた」ことを話したところ、
易者は、
「それが陰徳を積んだことになり、天禄(天から与えられた運命の総量みたいなもの)が書き換えられ、そなたの凶相を変えてしまったのだ」
と答えたそうにございます。
それ以後、水野南北は、禅寺ではなく、その易者であり、密教僧でもあった「水野海常」に弟子入りして、観相学の本格的な勉強を始めたそうです。
「水野南北」という名は、海常の命名によるものなのでございます。
勉強熱心だった南北は、自分も観相家になるための修行に励んだようです。
21歳となっていた水野南北は、職を転々としながら、観相学を究めて行きます。
文字が読めず、書物から学べなかったので、実地研究を行ったという説もありますが、
・髪床屋の弟子となり、3年間、髪結いをして、人間の人相を研究
・銭湯で風呂屋の下働き(三助)として働き、3年間、人間の全身の相について研究
・火葬場の人足(隠亡:おんぼう)となって、3年間、死人の骨格や体格を研究
特に、隠亡時代には、よく死体を切り開いていたそうです
工エエェェ(´゚д゚`)ェェエエ工
そして、運の悪い人は、胃腸の色ツヤが悪く、その中にある残存物が汚いことを発見したといいます。
つまり、運の悪い人は、偏食であり、胃腸を傷つけていたのです。
・・そうやって南北は、人間の顔と体の相だけでなく、食と人の運命との関連性などを徹底的に調べたようです。
さらに、南北は後年、食に関する神秘な体験をしています。
南北が50歳の頃、
時折、観相が、当たらなくなることを悩み、伊勢にて、21日間の断食や水垢離(みずごり)の修行を行ったのですが、
修行中、伊勢神宮の外宮で、豊受大神(とようけのおおみかみ)が現れ、
「命こそが運なり。食こそが命なり。すなわち食こそが運なり。」
という神託を受けたそうです
( ´゚д゚`)エー
ちなみに、その豊受大神は、『古事記』における五穀を司る食神です。
そして、自身の体験に照らし合わせ、
「生涯の吉凶は、ことごとく、食から起こる」
ということを確信したのでございます。
・・悟りを得た南北は、「食がその人の運命を決める」ことを世に伝えるために『相法極意修身録』という本を書きました。
それらは現在、現代語に翻訳されているばかりでなく、中国語にも翻訳されて、中国でも出版されています。
『相法極意修身録』から、ポイントになる節をいくつか抜粋してみると、
「飲食が持ち前より少ない人は、たとえ人相が悪くても吉であり、相応の幸せを得ることができ、長生きし、晩年幸福である。」
「飲食が分限より多い人は、たとえ人相が良くても、何事も順調にいかず、手おくればかりで生涯気苦労が絶えず、晩年不仕合わせである。」
「美食をつつしまなければ、家を没落させ、出世も成功もおぼつかない。まして貧乏人で美食する者は、働いても働いても楽にならず、一生苦労する。」
「厄年に大難の相があっても、常におごった食事をせず、厳重に定めている人は厄をまぬがれる。」
「たとえ貧乏で苦労の多い人相でも、自分自身で、貧乏人らしく粗末な物を食べ、これを厳重に守り抜くときは、自然に貧しさから抜け出して相応の財産ができる。これを自福自得という。」
「自分が後々、立身出世しようと思うならば、まず第一に食を減らして厳重に定めること。これができる人は必ず立身出世をし、できない人は生涯見込みがない。」
「飲食をつつしんでいると心も身体も健康で、気が自然に開けてくる。気が開けると運もそれにつられて開けてくる。先ず、三年つつしんで見なさい。それで、もし運が開けなかったならば、世界に神様はおられない。水野南北は天地の大敵である。」
「人間一生の吉凶はみな只その人の飲食による。恐るべきは飲食である。つつしむべきは飲食である。」etc って・・・
フードファイターはどうなんねんっ
工エエェェ(´゚д゚`)ェェエエ工
・・そして、南北は、「我れ衆人のために食を節す」という決意のもとに、生涯粗食を貫いたそうにございます。
その食事内容は、麦飯を主食とし、副食は一汁一菜であったそうで、米は一切口にせず、正月でも、餅は食べなかったといいます。
また若い頃はあれだけ好きだった酒も、1日1合と決め、それ以上は飲むことは無かったといいますが、、
禁酒はしてません (; ・∀・)
それでも、食をつつしんだことで運が開け、健康のまま78歳まで生き、相学の大家として数百人の弟子を持ち、屋敷一丁四方、倉七棟に及ぶ大成功を収めているのでございます。
・・また、西洋においても、水野南北と同様、
イタリア・ルネッサンス期のヴェネチア共和国の貴族、ルイジ・コルナロ(Luigi Cornaro, 1464~1566) が「少食」による幸福論を唱えています。
若い頃のコルナロは、暴飲暴食のため、30代で様々な成人病に罹り、40代には生死の境をさまよったそうです。
そこで、意を決した彼は、医師からの勧めもあり、「極少食」を実践したといいます。
コルナロが実践した超少食の内容とは、
・パン
・卵の黄身
・少しの肉(または魚)
・スープ
を1日合計で350g。それと、
・ワインを400cc
これを1日に2度に分けて摂取していたといいます
総カロリーでは、1000kcalにも満たない「超少食」で、むしろ、栄養失調にならないのか心配になってしまいます
((((; ゚Д゚))))
しかし、当時の平均寿命が30~35才だと考えられる16世紀のイタリアにおいて、コルナロは、なんと「102歳」という天寿を全うしたというのですから驚きです。
工エエェェ(´゚д゚`)ェェエエ工
彼は、超長寿者として世界中に知られたそうで、哲学者のフランシス・ベーコンやニーチェなども、彼のことを称賛していたようです。
・・彼の説は、『無病法』と言われ、「食事のカロリー制限をすることによって、病気せず、老年期の人生を幸福に謳歌できる」というものです。
86歳の時の講話で、コルナロは、
「"食べたいだけ食べればよい" という人は寿命を縮め、1日1度の食事にしているのに腹一杯食べている人も長寿を損なっている。
放縦な生活のために病み、天寿を待たずに他界した人々が、私の友人にも多い。
そうした人たちが私の忠告に耳を傾けてくれていれば・・、と悔やまれる。」
と述べ、水野南北の「節食開運説」と似たようなことを言っているのです
(ill゚д゚)
また、近代においては、
日本の実業家で、偉大な思想家としても知られた中村天風(なかむらてんぷう、1876-1968)が、少食および植物食を勧める提言を行っています。
中村天風は、30歳の時、当時、不治の病といわれた「奔馬性肺結核」に罹ったものの、明治44年、35才の時にインドで修行し、病気を克服した人です
工エエェェ(´゚д゚`)ェェエエ工
・・彼の手記によると、結核治療のために世界中を旅する中、カリアッパ師というヨガの聖者と偶然出会い、2年半、ヒマラヤの奥地で修行を行ったといいます。
天風は、後に、ヨガを日本に最初に導入するのですが、
修行当時の現地での食生活が、彼の食と健康に対する考え方の原点となっているようです。
彼は後年、
「ヒマラヤの奥地では、食事一日一回。米を食べるのも禁止で、水でふやかした稗(ひえ)が主食で、おかずはイモやゴボウを茹でたもので、調味料は塩だけ。
しかし、山には、いろいろな果物が実っていて、食べ放題だった。
そんな食事でも、修行しているインド人は、健康で筋骨隆々としていた・・」
と語っています
( ´゚д゚`)エー
そして、中村天風は、著書『いつまでも若々しく生きる』の中で、
・食物はできるだけアルカリ性のものを食べ、果物、野菜、海藻を中心にする
・牛肉、豚肉、羊などの四ツ足のものや赤身魚は食べず、動物性たんぱく質は少なくする
・植物性食品と動物性食品の割合は「7:3」が理想
・腹八分目に病なし。食事の分量は少なくし、一日ニ食とする
・食いすぎると早く年を取る。腹一杯食べている人間に丈夫な人間はいない・・
など、自らの食に関する考えを主張しています。
・・実際、彼は、どんな美人に勧められて接待を受けても、絶対に肉は食べなかったそうです。
また、中村天風の他にも、
医学博士で日本綜合医学会の会長も務めた甲田光雄(こうだ みつお、1924-2008)は、菜食の少食療法である甲田療法を確立したことで有名です。
甲田は、中学3年の時から患っていた慢性的な胃腸病を、断続的な断食によって克服したそうで、健康のために断食を励行する「断食博士」の異名を取っていました。
自らの経験から、彼は、甲田医院を設立後、
患者に対し、数か月にわたって、食事は主に、玄米、豆腐、青汁で一日二食、カロリーを一日1600kcal以下に抑えるという甲田療法を実施したそうです。
そうした少食を毎日続けているうちに、患者の大量の宿便が排泄されて、胃腸の吸収が良くなり、たとえ少食であっても、体重は適正体重で維持されるといいます。
甲田は、
「少食生活を実践する過程で、患者の抱えるあらゆる病気が改善し、健康体になれる」
と主張しており、難病とされる患者に対しても、数多くの成果を上げたそうにございます
(゚∀゚ )!!
・・水野南北、ルイジ・コルナロ、中村天風、甲田光雄のいずれもが、自己の運命を劇的に転換させた方法論として、
「少食」を挙げているのは、とても興味深いことにございます
(・∀・)ニヤニヤ
そして、彼らの思想は、現代に浸透しつつある、ベジタリニズム(vegetarianism、菜食主義)の思想を彷彿とさせます。
次回は、そんな菜食主義を実践するベジタリアンについて考えてみたいと思います。
つづく
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